第14回(理論編⑦)【公開講座・第7回】
テーマ:環境と経済
タイトル:地域経済と環境問題はどう関連しているか
講師:除本理史さん(大阪市立大学大学院経営学研究科教授)
日時:2017年11月25日(土) 14:00~17:00
会場:とよなか男女共同参画推進センター すてっぷ セミナー室1
今日は大きく「環境問題とは何か、持続可能な発展とは」「環境と経済の関係性~その歴史的変化」2点についてお話したいと思います。特に戦後の日本の歴史の中で、環境と経済の関係性はどう変化してきたのかをいくつかの段階で見ていきたいと思います。
今では「環境経営」が当たり前になってきていますが、わたしが大学院生だった1990年代は、ちょうどその転換点にあたる時期でした。環境を軸にして世の中の価値観が大きく変わった時期です。現在では地域の環境や文化を大切にしながら地域が発展していかなければならない、というようなことが言われるようになって、昨今は「ローカル」ブームみたいなことも出てきました。では今、この段階にあって、どういうことに気をつけなければ地域づくりに失敗してしまうのか、地域づくりにおいてどのようなことに注目していくべきなのか、といったことを考えたいと思います。
また、公式発見からすでに60年ほどが経過している水俣病について、最近の事情はどうなっているのか、その事例から考えたいと思っています。
1.環境問題、持続可能な発展とは
わたしたちの社会は、自然環境を土台にして成り立ちます。石油、鉱物資源、天然ガスといった物を採取し、生産過程に投入します。その生産物を流通・消費して、いらないものは廃棄していきます。その一部は自然界にまた戻ります。この自然界の豊かな恵みなしには、わたしたちの経済は成り立ちません。自然資源が生産過程に投入されて、その結果、工場などから煙や排水が排出されて自然界に戻っていくのです。
廃棄される中にはいろんな性質のものがあります。人間が人工的に造った化学物質は、たとえばプラスチックなどは自然の中では分解されません。一方で、もともと自然界に存在していたもの、たとえば温暖化の原因物質になっている二酸化炭素(CO2)は、光合成の中で植物に吸収されていきます。このバランスが崩れてしまうと大きな問題になっていきます。
これを農業で考えると分かりやすいと思います。農産物を採取し、食品に加工して消費していらない物を排出します。自然界では、たとえば野菜くずのようなものが有機肥料として分解されていきます。自然と人間社会との間でうまく循環しているうちは関係性がいいわけです。自然と人間との間の物のやりとりや物質のやりとりを物質代謝と呼んでいますが、この物質代謝がかく乱されてしまう、バランスが崩れてしまうことを環境問題と言います。
自然資源の場合、過剰な採取が起こると自然資源破壊が起こります。たとえば森林を伐採し過ぎてしまうと森林破壊が起こりますし、魚を捕り過ぎるとマグロの漁獲規制のようなことが起こってきます。このような過剰な採取による自然資源破壊といったタイプの環境問題があります。
こういうように環境問題は、一般的に言うと、自然界の物質循環と人間社会の物質循環のバランスが崩れてしまうことによって起きます。特に過剰採取と大量排出がその代表的なものです。最近では歴史的な街並みの保存であるとかそういったところにまで環境問題の捉え方が広がってきていますが、コアな部分はこのようなものだと思います。
なぜ企業活動から環境問題が生じるのか
企業活動から環境問題が必然的に生じる理由があります。今では企業も社会的責任、環境配慮といったことが当たり前になってきていますが、それは1970年代から、広まっていくのは1990年代以降のことです。放っておくと環境問題が生じる傾向がありますが、それは企業は利潤率を中心に考えるからです。利潤率というのは「利潤率/投下資本」で見た比率を言います。なるべく少ない資本でなるべく多くのお金を稼ぎたい、ごく当たり前の話です。
投下資本と言った時、そこに含まれるものとして利潤獲得に直接関係ない資本部分というものが含まれています。例えば労働者の労働安全衛生への投資、周辺に環境破壊を及ぼさないような公害防止・環境保全への投資といったようなものが入っていますが、これらは利潤を生まない投資なので、これを節約すると分母が小さくなって利潤率が大きくなります。これは個別の企業として見ても、社会全体として見てもそうです。政府の政策としても、税金がこういうところに投資されていくと、経済活動としては社会的なトータルで見た利潤率が低下していくということになります。そのため、何も規制をかけずに放っておくと、環境破壊が起こりやすくなります。結果として、公害の問題が起こってきたわけです。
持続可能な発展(sustainable development)
1980年代半ば以降に議論されるようになってきた考え方に「持続可能な発展」があります。わたしたちの経済・社会の基盤となる「環境」を健全な状態で維持(sustain)できるような発展のあり方を「持続可能な発展」と呼んでいますが、”sustainable development”という言葉の本来の意味から考えると、「維持可能な発展」とした方がよいという見解もあります。
2-1. 高度経済成長と公害 1950~1960年代頃(+公害と環境政策の歴史)
高度経済成長と産業公害の噴出
環境破壊がひどかった時代から、環境保全という方向に流れてきている歴史の展開を見ていきたいと思います。
1964年に岩波新書『恐るべき公害』が出版されました。この頃は公害が大きな社会問題になっていました。例えば四日市では、小学校のすぐ近くに工場の煙突が立っていてモクモクと煙を出しているので、子どもたちが呼吸器をやられてしまうということが起こっていました。自己防衛として窓を閉めきって授業をせざるをえないというような状況でした。
1960年代の後半から四大公害裁判がありました。熊本水俣病(1969-73)、新潟水俣病(1967-71)、イタイイタイ病(1968-72)、四日市ぜんそく(1967-72)です。1960年代の急速な経済成長の中で環境破壊が進行していく中で被害者が裁判を起こし、社会問題化していくという動きがあり、いずれも被害者側が勝訴しています。
これによって1970年に環境政策に関わるさまざまな法律が成立し、公害国会と呼ばれました。1973年には公害健康被害補償法(公健法:公害病患者への被害補償制度)ができ、大気汚染防止法における厳しい総量規制の導入が行われるなど、日本の環境政策が大きく動きました。日本の環境政策の形成の特徴は「ボトムアップ型」ですが、市民や被害者がアクションを起こして環境政策を形成してきた歴史といえます。
1960年代には工場や事業所から出る汚染の問題が非常に大きかったわけですが、1970年代にはゴミ問題や自動車の普及による排ガス汚染など生活関連の環境破壊が深刻化していきます。工場による大気汚染は1970年代を境に減少していきますが、自動車排ガス汚染は高止まりするという逆転現象が起こってきました。1970年代から、産業型すなわち生産活動からの公害はやや減少していきますが、わたしたちの消費生活と大きく関連する公害が加わっていくことになりました。
環境政策の後退(1970年代後半~)
1970年代半ば、いわゆる石油危機が起こります。それがきっかけとなって経済成長が減速しました。環境政策が切り詰められていくという動きが1970年代後半に出てきます。いわば反動期のようなものです。たとえば大気汚染の環境基準が緩和されたり、公害による健康被害の補償を停止したり、水俣病の患者を絞り込んで切り捨てていくといった動きが出てきました。
これを何とか食い止めようと、1979年に日本環境会議(JEC)が設立されました。
2-2. 「批判の時代」:1960年代末~
高度経済成長の負の側面に対する批判の噴出
公害がひどかった1960年代を経て、特に1960年代後半、高度経済成長の負の側面に対しての世論の批判が顕著に表れてきます。高度経済成長によってわたしたちは確かに豊かになり、貨幣的な所得が増加しました。しかし「生活の質」がそれに伴いませんでした。公害によって人が病み、死んでいくような状況は本当にプラスなのかという疑問が出てきました。公害問題の重要なポイントはここにあるのだと思います。
この疑問に対しての市民の動きとして、公害訴訟が提起されましたし、都市部で顕著だった「革新自治体」という野党勢力による政権の成立もありました。「地域主義」といった対抗理念も出てきます。
対抗理念:「地域主義」「内発的発展」
1970年代、玉野井芳郎氏(経済学者、1918-1985)他によって提唱された「地域主義」という考え方があります。「一定地域の住民が、その地域の風土的個性を背景に、その地域の共同体に対して一体感をもち、地域の行政的・経済的自立生と文化的独立性とを追求する」というものです。住民の暮らしは本当に豊かになっているのか、地域の特性を生かした発展を模索すべきであるという考え方に基づいています。
1980年代に入ると、宮本憲一氏(大阪市立大学名誉教授、経済学者、1930-)他により「内発的発展」論が議論されるようになりました。地域開発の目的は貨幣的所得を上げるだけではなく、地域の環境や文化といった資源を発展・保全していく、地域主体の内発性によるものである必要があるという考え方です。外来型開発=地域の外側から開発プロジェクト(→住民の「生活の質」の乖離、逆相関=経済成長はしても住民の生活の質は低下する)からの転換を意味し、環境の持続可能性(サステイナビリティ)=持続可能な内発的発展をめざします。
1960年代までの高度経済成長の成立
1970年代に入り石油危機を迎えて高度経済成長が終わりますが、1960年代までの高度経済成長がどのようにして成立していたのかを、経済学的に見ておきましょう。
「高度経済成長」とは、物が大量に生産されて大量に消費されていくということです。大量消費の背景として、働く人びとの所得が上がり、大量生産されたものが買えるようになったということがあります。生産性の向上、つまり単位労働時間当たりの財やサービスの生産を上げていくということが実現しました。実質賃金が上ることで、消費も拡大しました。生産の拡大と消費のバランスがうまくとれた時期が高度経済成長期です。
これがなぜ終わってしまったかというと、石油危機という事情はありましたが、やはり過剰生産が原因です。特に、耐久消費財と言われた家電製品や自動車などの消費が頭打ちになってしまいました。市場が飽和状態に到達してしまったというのが大きな原因です。
企業も売れないものをつくっていくわけにはいかないので、1970年代になってサービスの経済化や、脱工業社会といった流れが強まってきます。モノから無形のサービスへと生産活動の中心が移動していきました。
2-3. 「批判」の体制内回収:1990年代~
大量生産・大量消費から認知資本主義へ
1990年代からの最近の動向としては、資本主義のあり方がそれまでよりもかなり大きく変化してきています。昨今、「経験経済」「経験価値」などを扱う本が何冊も出ていますが、1990年代はサービスの中でも「経験」という商品が非常に注目されるようになりました。こうしたトレンドを「認知資本主義」と呼んでいます。
1970年代から起こってきたモノからサービスへという流れは、かつては自分でしていた労働や作業を他人にやってもらうということです。その中でも経験、つまり人びとの知識や情動により強く働きかけるようなものが価値を高めていきます。
ミュージシャンのCD、DVD、ライブを比較しますと、音楽だけを収めたCDよりも、画像を伴うDVD、さらにそのミュージシャンのパフォーマンスを生で体験できるライブという順番で、消費者はより高い価値、より高い金額を支払ってもよいという意志を示すデータがあります。この金額の差は「生の経験による価値増加分」ということです。
1990年代「地球環境」の時代
1992年にリオデジャネイロで、国連によって地球サミットが開催されました。その中で生物多様性条約、国連気候変動枠組条約といった地球環境条約の進展があり、温暖化防止条約も成立しています。1990年代は、地球環境を保全しなければならないという価値観が急速に世界政治の中心に押し上げられてきた時期にあたります。
エコロジー的近代化
公害が問題となっていた時期には、経済成長によって環境問題が起こりました。そのため、地域主義といった対抗理念で臨む必要がありました。それが1980年代まで続いたわけですが、1990年代になると、経済成長と環境保全は両立するという議論が盛んになってきました。それがエコロジー的近代化という議論です。
かつては経済が成長するとそれに伴って汚染物質の排出も増えていくというように考えられていましたが、企業が環境保全に取り組んだり、環境保全そのものがビジネスになるというように、企業の活動も大きく変化してきています。またそうした企業の活動を環境省が支援するといった動きも出てきています。
「批判」の体制内回収
1990年代は、かつては資本主義のあり方に対する疑問として出てきた批判が、資本主義の内部に取り込まれて企業活動に定着していく時期でもありました。
「地域主義」や「内発的発展」は、高度成長に対しての批判であったわけですが、近年の資本主義の動向を見ますと、「地域主義」や「内発的発展」による批判を資本主義のあり方自体が取り込んでいくという動きが起こっています。現代では、地域の環境や文化、固有性といったようなものは、資本主義によって破壊されるものではなくて、むしろ資本主義の経済活動の中で、ビジネスを進めていく上での不可欠な要素として、組み込まれつつあります。環境や文化、地域の固有性といったものを大事にすることによって、むしろ利潤を獲得できる、市場のフロンティアに転化しつつあるといえます。
ローカル志向、田園回帰
働き方や産業、経済のあり方が、地域の本来のあり方を破壊しないような形で転換していく時代に入ってきています。地域の固有性や地域づくりといったことと企業活動が、より密接に関わるような時代になってきているのです。現在、農村などの地域で暮らしていこうという人びとの中で最も重視されているのは「人とのつながり」であるといったデータもあります。地域の中で人と人がつながって生きていくということに価値を見出すということが、トレンドとしてかなり強まっているということが見えてきます。「地方創生」もローカル志向といったトレンドをよく反映した政策だと思います。
「地域の価値」の焦点化
以上のようなトレンドを背景に、農村へのニーズも変化してきています。
高度成長期には、農村は食料の生産地としか見なされず、安くて大量の食料の供給というニーズしかありませんでした。しかし今は、消費者にとって農村は、伝統や文化の継承、環境の保全、人と人とのふれあいといった要素がトータルにある空間としてイメージされ、求められています。
食品を供給するということであれば流通しているものを買えばいいだけですが、わざわざ農村に行って、その地域で生産されたものを消費する、つまり農村空間そのものを消費するといったトレンドが今の動向です。ですから認知資本主義といわれているように、消費者の動向が変わり、地域の環境を保全したり、地域の固有性を生かしていくといったことが、ビジネスにつながるような時代になってきています。企業活動もそれに合わせて変化してきているということになるでしょう。まちづくりにおいても、「地域の固有性」「地域の価値」といったものがキーワードになってきています。
2-4. 水俣の事例から考える
熊本水俣病事件
熊本水俣病事件は、化学会社チッソ(当時は化学肥料製造会社)が、熊本県水俣市の工場からメチル水銀を大量に排出し、不知火海沿岸に広範な健康被害をもたらした事件です。チッソの前身である日本窒素肥料(株)が1908年に設立され、水俣工場で操業開始しています。1932年から水銀を使いはじめていますので、戦前・戦中から被害患者は出ていたと考えられますが、水俣病の「公式発見」は1956年で、その後、社会問題化していきます。中枢神経疾患の患者が続出していることが報告され、大きな問題となっていきました。水銀の排出は1968年に停止していますが、それまでに大量に排出された水銀が水俣湾や不知火海に溜まっていて、それが被害を拡大していくことになります。
1969年から1973年にかけて裁判が行われ被害者側が勝訴しますが、環境政策の後退の影響で、1977~78年あたりから救済対象となる認定患者を絞り込んで少なくし、加害企業であるチッソの資金繰りが悪化しないように救済していくという措置がとられました。そのために未認定患者と呼ばれる人びとが多く生み出され、全国で裁判を起こしていくことになりました。2000年代には国の加害責任が認められ、最高裁判決でも原告側の勝訴が確定していくという流れが起こりました。結果、水俣病裁判は今でもまだ続いているというのが現状です。
チッソ、行政の責任
朝鮮半島で事業投資を行っていたチッソは、敗戦によって設備のすべてを水俣に集中することにしました。そのためまだ確立されていない新しい技術も強引に導入し、かつ水銀を回収しないなど、その操業実態は安全性無視のずさんなものでした。それが水俣病を引き起こしました。特に、1958年には不知火海で排水を希釈するために、水俣川河口に排水経路を変更することで被害の拡散を招きました。
水俣病事件の責任はチッソだけではなく、熊本県や国にもあります。企業に対して規制をせず、対策を講じるきっかけが度々あったにもかかわらず、それを行ないませんでした。そのため、被害の発生、拡大、放置ということにおいて大きな責任があります。行政が調査を怠ってきたために、健康被害を受けた人の実数など、基本的な事柄が実ははっきりとわかっていません。
患者への差別
水俣病は、原因が究明されず放置された状態が続いたために、当初は伝染病のように考えられました。患者が隔離されたり、そうではないとわかってからも差別が残存しました。患者本人に対しての差別もありましたし、補償金に対しての妬みなどもありました。
地域再生の課題~もやい直し
なぜ患者が差別されるのでしょうか。水俣市は典型的な「企業城下町」という性質を持っていたことが背景にあります。そのため、被害者が企業の責任を追及するという人たちが、企業によって成り立っているこの地域に対しての「敵」とみなされてしまうのです。
この構造が地域の発展をさまたげているということで、1990年代に水俣市長であった吉井正澄さんは、公害による地域社会の崩壊を乗り越えて地域の再生をめざすため、「もやい直し」という標語をかかげました。「もやい」とは、船と船をつなぐという意味(「舫(もや)う」)で、そこから人びとが寄り合って共同で事を行ったり、お金を出し合うという意味(「催(も)合(や)う」)があります。
当時の吉井市長の提起は、①水俣病事件を契機にバラバラになった市民の心をひとつにつなぎとめて、②市民が共同で助け合いながら地域社会を支え、みんなで「まちづくり」を進めようというものでした。
「もやい直し」の背景
1970年代以降の脱工業化の流れで、チッソの企業城下町であった水俣市においても、産業構造の変化が起こりました。水俣市における製造業の従業者数の減少、市税収に占めるチッソの納税額の割合の低下など、地域経済におけるチッソの地位が低下していったということが、「もやい直し」の背景としてあります。
また、1977年から行われてきた、水銀を大量に含む水俣湾のヘドロを処理し、埋め立てて公園として造成するという熊本県の公害防止事業が1990年に完了したということも挙げられます。
未認定患者の救済をめぐる「政治解決」に向けた動きもあります。大阪地裁に提起された関西訴訟を除いて、各地の国家賠償等請求訴訟が1995~96年に和解に至りました。このような中で「もやい直し」が提起されました。
「もやい直し」の再定義
吉井元市長の発言に「もやい直し」の意味が現れています。
「〔地域の〕個性とは、他をもって代えることのできないその地域における価値です。ほかのことで代替できない価値です。・・・たった一つ、水俣にしかない個性があります。それが公害の原点と言われる水俣病ですね。・・・これこそが水俣の個性だと思います。
ところが、この個性は今まで水俣市民を苦しめてきた、すごく強烈なマイナスの個性だったんですね。これがまちづくりに役立つのかとだいぶ批判されました。しかし私は、逆だと思っているんですよ」。
つまり、水俣市民が「水俣病」を地域のかけがえのない価値と積極的に捉えなおし、その価値を地域づくりと軸として共有する過程を「もやい直し」と呼ぶということです。
地域における人々の営みを(被害回復をはかりながら)検証する
つまり、水俣病それ自体を地域の個性とし、「環境の回復」「住民主体」「消費の動向」といったトレンドを反映して地域を発展させるということをコアに置いて、地域づくりを進めていこうとしているわけです。
「ダークツーリズム」論とは、本来であれば観光の対象にならないような悲劇的な出来事を観光の対象にすることを言います。たとえばナチスの強制収容所や戦争遺産などの歴史的な意義をもっているもので、観光の対象になっているところがあります。それは学習・教育と結びついています。水俣でも「もやい直し」という被害回復のプロセスが観光資源として地域づくりの根幹となっています。
水俣に限らず、他の地域でも、またみなさんの地域においてもそうですし、人びとの心に訴える地域の価値とは何かを考えてみていただきたいと思います。
講師の除本理史さん(大阪市立大学大学院経営学研究科教授)
質疑応答
Q:東日本大震災と原発事故以降、「絆」ということばが多用されました。この言葉を使うことで、国や企業の責任が隠蔽されていっているように思えます。公害については企業の責任、加害者と被害者の立場が明確にされましたが、環境問題においては、誰が加害者で誰が被害者なのか不明確とされがちです。そのような点についての研究や整理はなされているのでしょうか?
A:公害の時代は、加害企業がいて、被害者がいて、加害と被害の関係がはっきりしていました。「加害と被害の関係がはっきりしないのが環境問題の特徴だ」とよく言われますが、わたしたちの学派は、公害の問題と環境の問題を連続させて理解するという立場ですのでそういう見方をとっていません。たとえば温暖化の場合、温室効果ガスを排出している国とそうでない国があって、大量に排出しているということは、大量にエネルギーを消費している国ということになります。歴史的な視点からも、累積では先進工業国が多く排出しています。ただ途上国と言われる国の中でも急速に経済成長してきている国がいくつもありますので、それを放っておいていいかというのは、また別の問題としてあると思います。そのような先進国と途上国の責任の重さの違いはありますから、みんなが同じレベルで総懺悔のような議論にはならないだろうと思います。
一方、先進国の企業が途上国に出向いて、そこで公害を撒き散らしている公害輸出といったような、公害事件を国際的に展開しているといったようなものもあります。
そのような視点から考えると、公害と環境は別問題だとするのは間違っていると言えるでしょう。
Q:「もやい直し」は持続可能な社会にどうつながるのでしょうか?
A:ひとつは患者本人の健康被害があります。それによって家族が崩壊したり、地域社会が崩壊したりしました。前提として海が汚染されたといったこともあります。
環境の回復を地域でトータルにやっていくことなしには、水俣病の被害の救済はありません。地域づくりの軸に水俣病を引き起こした環境破壊のプロセス全体を回復していくこと、たとえば地域の汚染、海洋汚染の回復などが必要です。あるいは地域コミュニティの修復があげられます。こういったことをトータルにやっていくということが「もやい直し」の中には意味として含まれています。
以上のようなプロセス自体が、地域外の人たちにとって「これはすごい取り組みだな」という地域固有の価値になるということなんですね。そこに教育旅行や修学旅行という形で、地域経済効果も生まれます。
被害の回復、環境の保全、地域文化の再生と、地域経済・地域社会の発展を両立させていくことが求められます。