2017/12/9~10 第15・16回(企画編②③)合宿

第15・16回(企画編②③)合宿

テーマ:(第15回)課題の設定と事業内容の検討、 (第16回)課題の共有化と事業化&傾聴プログラム
講 師:谷亮治さん(京都まちづくりアドバイザー、大学講師) 
進 行:森本誠一さん(大阪大学産学共創本部特任研究員)、とよなかESDネットワークの皆さん
日 時:2017年12月9日(土)14:00~12月10日(日)15:00
会 場:勝尾寺 宿坊「応頂閣」 研修室2

 

第15・16回講座は、箕面市にある勝尾寺宿坊「応頂閣」に会場を移し、合宿を行いました。
9日(土)午後は、全体オリエンテーションなどの後、まず講義を聞きました。(下記参照)
講師に谷亮治さん(京都まちづくりアドバイザー、大学講師)をむかえ、「地域課題とまちづくり」に関する講義を聞いた後、森本誠一さん(大阪大学産学共創本部特任研究員)の進行で、塾生の皆さんからの質問を受けながらさらに詳しいお話をうかがいました。

9日(土)夕方からは10日(日)午前にかけては、グループごとに企画づくりのミーティングを行いました。

←企画づくりにむけて、グループごとでの話し合いの様子

10日(日)午後には2日間の話し合いの成果を発表しました。

←グループごとの発表の様子

最後に、1~2月に実施するイベントの話し合いを行い、2日間の合宿を終えました。

↑ 10日(日)朝のめざましワークショップの様子。ファシリテーターは、上村有里さん(とよなかESDネットワーク)です。

 

講義「地域課題とまちづくり」
講師:谷亮治さん(京都まちづくりアドバイザー、大学講師) 

谷亮治(たに・りょうじ)と申します。ふだんは京都市役所でまちづくりアドバイザーという仕事をしています。「まちづくり」をやっている人というと、コミュニケーション能力の高い、お祭り好きな人をイメージされるか方もいらっしゃるかと思いますが、わたしはどちらかというとその真逆です。高校と浪人の4年間、友達のいないいわゆる「ぼっち(=ひとりぼっち)」と言われる時期を過ごしてきました。ドロップアウトする勇気もなく、何か意志があってひとりだったわけでもありませんでした。地元を離れて進学校に入学したのですが、4月から5月あたりで人間関係が固まって小さなグループができ、それ以降は人の流動がなくなるというゲームなのだということに気づきませんでした。6月になっていっしょにご飯を食べる友だちがいないことに、ようやく気づいたというわけです。たとえば、まちづくりの場面ならば、いろんな人が交流できるようなファシリテーションやワークショップなどの方法で人間関係があまり固まらないような仕掛けをします。しかし、当時わたしが通っていた高校にはそのような技術を持った教員はいませんでしたから、残念ながら3年間ひとりぼっちで過ごしてしまうことになりました。

まちづくりには大学から関わり始めました。そういうと「すごいですね。まちづくりをするために大学に行かれたんですよね」と多くの人が勘違いしてくれるんですが、残念ながらそうではなく、友だちが欲しくて進学しました。まちづくりに出会ったのはたまたまです。そういった気持ちで大学に行っていますので、友だちができそうなサークルやバイトなどをしていましたが、テニスサークルなどに行っても体がついていきませんでした。でも、このままでは「ぼっち」になってしまうと思って、人が集まるところにはなるべく出向くようにしました。その中で、後にわたしの恩師となる先生の「まちづくりゼミ」に出会ったわけです。

一般に「まちづくりゼミ」というと、まちづくりの歴史や理論を勉強するものが多いのですが、わたしの先生はちょっと変わっていました。「理屈はいいから、地域の現場に行って地域の人たちといっしょに汗をかきなさい。いっしょに汗をかくことで学んで来なさい」と指導していました。友だちが欲しいのでやれることは何でもやろうと思い、まちづくりの現場に行って餅つき大会を手伝ったり、高齢者サロンを手伝ったりしました。すると、自分がやれることがたくさん見つかりました。地域の人も話しかけてきてくださいますし、やりがいも得られますし、色んなつながりができました。しかし、わたしのコミュニケーション能力が急に上がったというわけではありません。どちらかというと、わたしを受け入れてくれたまちの方がすごいんだということに気づきました。

まちづくりというのは基本的にボランタリーな活動です。そのため、皆さんが「やりたい」「やりがいを感じる」と思わなければつづきません。うまくいっているまちづくりの現場には、そこに関わる人びとが、やりがいを感じられるような工夫があります。その知恵をもっと知りたい、もっと調べていきたいと思うようになりました。ちょうどその時期、起業したまちづくりNPOがありましたので、そこに勤めて現場で実践をしながら研究もするという生活をしてきました。博士論文が書けたタイミングでまちづくりアドバイザーの募集がありましたので、転職をして、今こうして皆さんの前に立っています。

以上のような動機ですので「まちづくりいいですよ、やりましょう!」というキャラクターではありません。むしろ、人間関係をよい状態で維持するような知恵がないと、その集団というのはうまくいかないと思っています。逆に言うと、知恵があればその集団はうまくいくと感じています。つまり「まちづくりいいですよ、やりましょう!」というより、「やるなら、うまくやりましょう」という立場です。

1.地域課題の解決の仕方と、まちづくりについて考える

わたしは17年ほど仕事や研究でまちづくりに関わっていますので、まちづくりをこれから始めようという方に比べれば、知っていることは多いかもしれません。しかし、まちづくりに正解はありません。そのためここでは、「わたしはこういう考え方に基づいて仕事しています」という伝え方をします。

「まちづくり」とは何か?

まちづくりとは何か、じっくりと考えたことがあるでしょうか。一般的には、道の落ち葉掃き、登下校時の見守り活動、消防団の活動、商店会活性化のイベント、地域の景観づくり、地域ブランドづくり、といったようなものをまちづくりと呼んでいます。これらは確かに「まちづくり」と呼ばれていますが、例えば「道の落ち葉掃き」と「地域ブランドづくり」に共通するものは何でしょう。

まず、「まち」という言葉について考えます。一般的に「町」と書きます。これは「田んぼと十字路」からできています。つまり「生産インフラと交通インフラの集積」です。しかし、乱開発が進みすぎて人が住めなくなっている地域があります。いわゆるゴーストタウンです。人が住んでいないと「まち」とは呼びません。つまりまちとは、「生産インフラと交通インフラの集積」が「人の集まり」とセットであることが重要であると考えられます。そこで、わたしは「特定の財を共同利用する人の集まり」と定義しました。まちには、市町村、都道府県、国と同心円状にさまざまなサイズがあります。どのまちをターゲットにするかはみなさん次第です。まずは「ここのまちをターゲットにしたい」という思いでチャレンジしてみてください。まちづくりでいきなり日本国を変えるのは無理です。まずは小さなところから始めましょう。

次に「まちづくり」についてです。「まち」が「特定の財を共同利用する人の集まり」とすると、「まちの人ならば誰でも使える財産をつくる」のが「まちづくり」です。例えば「道の落ち葉掃き」の場合、その道を通る人すべてが利益を受けられます。「登下校時の見守り活動」も同じです。子どもたちだけではなくて、そこに立っている以上、いろんな人を見守ることができます。地域ブランドもそうです。たとえば京都ブランドということばがありますが、わたしは京都で生活しているので、京都ブランドを名乗ることができます。

では、まちづくりとビジネスやサークル活動との違いは何でしょうか。「ビジネス」とは、お金を払った人だけが使えるサービスづくり、「サークル活動」は、仲間だけが使えるサービスづくりです。これに対して「まちづくり」は、まちの人ならだれにでも提供されるサービスづくりです。お金がない人にも仲間がいない人にも分け隔てなく提供されます。その意味では、ものすごく親切な善行であるということができます。しかし、これをビジネスやサークル活動と混同してしまうことがあります。助成金や補助金を申請した場合、はねられてしまうことがありますが、それはお金を払った人しか使えないということにしていたり、仲間内だけで行うというようにしてしまっているからです。

まちづくりの厄介な性質

ものすごく親切な善行であるまちづくりですが、まちづくりには厄介な2つの性質があります。

ひとつめは、「フリーライダー問題」です。まちの人ならだれでも使えるサービス(非排他的)なので、正当な対価を支払わない人、つまりタダ乗りする人でも使えてしまいます。そのため、対価を支払っている人はバカらしくなって辞めてしまうことが起こり、財の供給過少が起こるのです。

ふたつめは、「お客さんを選べない=誤配問題」です。まちの人ならだれでも使えるサービス(非排他的)なので、それを望まない相手にも届いてしまいます(郵便で言うところの「誤配」)。その結果、よかれと思ってやったことに対して思わぬところ(身内)から矢が飛んできてしまうのです。そのために財の供給過少が起こります。

これらはまちづくりに取り組んでいく上で必ず起こります。このことを覚えておくと、傷つくことが少なくて済みます。

 まちづくりのバージョン

まちづくりにはバージョンがあります。

「まちづくり」という言葉が使われるようになったのは1960年代頃だといわれています。以降、その時々によっていろんな意味が込められるようになりました。

太平洋戦争の戦後復興においては、中央集権的な公共財供給、つまり国土開発として行われてきました(version 1.0)。1960年代に公害反対運動が勃興しますが、その時に初めてひらがなの「まちづくり」が使われるようになります(version 2.0)。その後、行政事業の計画に市民が参加することを市民参加と言いますが、これも「まちづくり」と呼ばれるようになります(version 3.0)。さらに行政が行っている公共事業の提供の実施段階から市民が参加するようになり、これを市民協働と言います(version 4.0)。そして「まちづくり」を商売として儲けていこうという段階に入りました。これをコミュニティ・ビジネスと呼びます(version 5.0)。ですから「まちづくり」と言っていても、そのことばを使う人によってその意味が違っていたりします。

たとえば次のような事故が起こります。行政の人はよかれと思って中央集権的に何でもやってあげようとします。しかし市民の側は市民参加を期待しています。すると市民の側は「行政はわれわれに相談もなしに勝手にやっている」となり、行政の側は「われわれは専門家として責任を持ってやっている 」と食い違いが起こります。

その逆もあります。行政は「『まちづくり』は市民がみずから経営的に自立してやっていくべきだ」と捉えており、対して市民は「『まちづくり』とは行政がやることに対して意見を言う場だ」と思っている場合があります。行政は市民に対して「それは行政がすることではない」となり、市民は行政に対して「どうして何でも市民にやらせようとするのか」みたいな形で衝突が起こります。

みなさんはどういう意味で「まちづくり」を使っていますか?

 

2.何を課題と考え、どう取り組むか?
「地域課題」とは何か?

「空き家が課題だ」「高齢化が課題だ」という場合、「課題」という言葉をどのような意味で使っていますか。そもそも「問題」と「課題」はどう違うのでしょうか。

「地域課題」は「地域」と「課題」という2つのことばからできています。「地域」とは、「地の域」ですから物理的エリアをさします。「課題」とは、「問題を解決するためにすべきこと」です。では「問題」とはでしょうか。「こうであってほしいのに、そうなっていないこと」、つまり願望と現実認識とのギャップのことです。

みなさんが地域に対して課題解決活動しようとするなら、まず「問題」に立ち返る必要があります。しかし「問題」が何かという前に、みなさん自身の願望、すなわち「願い」に立ち返らなければいけません。

みなさんは、どの地域に、どんな願いを持っていますか?そして、その願いと現実は、どう違っていますか?「〇〇であってほしいのに、そうなっていない」という言葉で表してみましょう。「〇〇であってほしい」と「そうなっていない」というギャップを埋めるために、まちの人ならだれでも使える財を供給するという方法を使うのが「まちづくりによる地域課題の解決」というプロセスです。

まちづくりの重要なポイント

まちづくりをする上で重要なポイントがあります。みなさんの願い、願望が大事だと申しあげましたが、その願いは道理にかなっているものなのでしょうか。これはセルフチェックが必要です。なぜなら道理にかなっていない願望は、みなさんもまちも幸せにしないからです。たとえば「働かないで大金持ちになりたい」。願望としてはありふれたものでしょうが、理にかなっていないので、この願いはなかなか叶いません。それを無理して叶えようとするとどこかに歪みが生じます。

セルフチェックのために、また言葉の定義をしましょう。「目的」「目標」「願い」「狙い」。この言葉の違いを説明できますか。

「願い」は、「じぶんのことではない・ぼんやりしていること」です。まちづくりの相談を受けると「目的は、まちを元気にすることです!」というようなことをよく聞きます。しかし「まち」はじぶんのことではないので操作できませんし、してはならないことです。ですから、あなたが「まちを元気にする」ことはできません。元気になるのは「まち」です。つまり「まちが元気になるといいなあ」という「願い」なのです。

「狙い」は、「じぶんのことではない・はっきりしていること」です。「まちが元気になる」というのは具体的にどういうことでしょうか。たとえば「商店街の各個店の売上が前年より10%上がる 」といえば、具体的な、はっきりとした数値が出てきました。これが「狙い」です。

「目標」は、「じぶんのこと」で「はっきりしていること」です。「商店街の各個店の売上が前年より10%上がる 」という狙いは、放っておいては実現しません。ここで、初めて「じぶんのこと」として、あなた自身が登場します。「商店街に人がたくさん来たくなるような、誰でも参加できるお祭りイベント企画、実施する」。これが、あなたがじぶんでできるはっきりとした目標です。助成金や補助金の申請書にはこの目標を書くのがよいです。

そして「目的」です。これは「じぶんのこと」で「ぼんやりしていること」です。わたしたちは何かを始める時、ここから始めがちです。しかしこれは難易度が高いので、「願い」から始めた方がいいです。目的はあらかじめわかっているというよりも、願い→狙い→目標の順で考えた結果、「あぁ、なるほど。自分はこういうことを目的にしていたんだなぁ」と理解するのが自然だと思います。

「商店街に人がたくさん来たくなるような、誰でも参加できるお祭りイベント企画、実施する」。とても、めんどくさそうです。かなり大変だと思います。商店街のことですから反対する人もいるでしょう。まちづくりですから実施したら「うるさい」と苦情を言ってくる人もいるかも知れません。ましてや商店街に加入していないお店までこのイベントで利益を得てしまいます。それでもあなたはやりますか。やろうとした時、初めてあなたの目的が見えてきます。なぜあなたは、そもそも「まちが元気になるといいなぁ」という「他人事」を願ったのでしょう。そこには「あなた自身がこうでありたい」という、あなた自身のあり方への夢があったはずです。それが、あなたの目的です。

先ほども述べた通り、まちづくりはだれでも利益を受けられます。それゆえタダ乗りする人もいます、文句を言ってくる人もいます。ましてや儲かりません。あなた自身がこれをわかっていないと、タダ乗りされたり、文句を言われた時に心が折れてしまいます。まちづくりには対価がありません。だからこそ自分自身は何を大事にしたいと思っているのか、そこに返ってほしいです。

目的がずれているとよくないことが起こります。たとえば「儲けたい」というのが目的だとすれば、「儲けたいから、まちが元気になるといいなぁ」ということになります。そして、各商店の売り上げを上げるためにイベントをやります。でも儲かりませんでした。なぜならば、まちづくりだからです。すると「思っていたのと違う」ということになります。しかし、まちづくりが間違っていたのではなく、実際には目的と方法がずれていたのです。儲けたいのであれば、まちづくりではなく、ビジネスをすべきです。

「まちを元気にするために、イベントをする」から、「まちが元気になることを願い、そのために商店街の各個店の売上が前年より10%上がることを狙い、誰でも参加できる楽しいお祭りイベントを、わたしは企画実施します」と言い換えてみましょう。ここで初めて、自分がやろうとしてることは何なのか、他人のことに踏み込んでないか、自分の責任でやることがどこまでなのかが分かるようになります。

まちづくりに関わる人は、心が優しくて親切な方ばかりです。すると、人のことを背負い込みすぎる傾向にあります。それで身を持ち崩してしまう人を何人も見てきました。わたしはみなさんにそうなってほしくありませんので、次の言葉を送りたいと思います。

○じぶんのことじゃないことに踏み込まない、背負い込みすぎない

  • 他人の有様を操作することできないし、許されません。
  • 他人の有様を背負うこともできませんし、苦しいです。
  • 世界は思うように動かない……世界はどう変わるか、わたしたちにはわからないのです。だからこそ、自分でやると決めたことをやるしかないのです。
  • やるべきことをやったのに、狙いどおりにならないことはザラにありますし、その逆に、やり切れなかったのに思いのほか狙いどおりになって結果オーライなんてことも日常茶飯事です。

○そして、あなたはどうなりたいのですか?

  • まちづくりはだれでも利益を受けられます(排他的)。だからやっても報われませんし、利用者も、報いる義務などありません。
  • だから、思わぬところから矢が飛んできて「やってあげているのに」と不満を持ってしまうのは、道理にかなわないことです。
  • 「対価を得たい」と言う夢を持っているなら、まちづくりという手法ではなく、ビジネスのような手法がいいでしょう。仲間内で何かしたいなら、サークル活動でいいでしょう。
  • でも、違うことを夢見られるなら、まちづくりという手法も悪くありません。

「まちの人が、お金持ちであろうが、友だちじゃなかろうが、皆が幸せでいてくれるといいなぁ」。そう思えるなら、あなたはビジネスやサークル活動とは違うことを夢見ています。皆さんは心のどこかでそのように思ってらっしゃるでしょう。その願いを忘れないでほしいです。  

これまでお話ししてきましたように、まちづくりというのはやり方を間違えると、よかれと思ってやったことが思わぬ悲劇を生みがちです。だからこそ皆さん自身が何を願って、何を狙って、そして何をやるのか、ということを、何度でも何度でも、確認しておいてほしいと思います。

 ←講師の谷亮治さん(京都まちづくりアドバイザー、大学講師) 

質疑応答

Q.まちづくりに対価はないというお話でしたが、儲けるということではなくても、何かをするにはお金が必要だと思います。

A.一般論でしかありませんが、何をするにしても無い袖は振れません。すると、あるものでどうにかするしかありません。たとえば、10,000円くらいなら出せるというのであれば、 10,000円でできることをすべきだと思います。 200万~300万円かかることをしなければいけないという願いはわかりますが、目標としては今はふさわしくありません。目標をあげるのであれば、「将来的には、200万~300万円かかることができるようになるといいなぁ」という願いをかかげて、そのために、まず何から始めるか、を考えることだと思います。

わたしの友人の劇作家はおもしろいことを考えました。若い作家たちは表現したいものがあるのに、お金がないので劇場を借りることができません。そこでこの友人は近所のカフェのテーブルをみんなで囲んで、テーブルの上でできる演劇祭「机上演劇祭」というのをやりました。指を使ったり、紙人形を使ったり、いろいろと工夫をして。テーブルの上だけの演劇祭です。面白いですよね。

もうひとつ、東京は土地が高くてなかなか庭が持てませんが、緑はあちこちにあります。そこで「東京でガーデニングをしよう」とグループをつくって、商業施設の植え込みなど任意で自分たちの庭と勝手に決めて、水をやったり、育てたりしました。すると、その一角だけきれいになりました。そのように、自分のできる範囲で自分のやりたいことやってしまうということはできると思います。

こんなやり方もあるなぁと楽しみながら考えることは、すごくクリエイティブなことですし、イノベーションが生まれるところだと思います。みなさんも「これが必要だ」ということがあるなら、それが何かに置き換えられないか、ダウンサイジングしてできないか、人から借りられないだろうか、そんなことが考えられると新しい一歩を踏み出すヒントになるかもしれません。

 

Q.複数の人が同じような願いを持ちながら、それが微妙に少しずつずれていたりした時にはどのように取り組んでいけばよいのでしょうか。

A.すごく大事な質問だと思います。チームを組んで何かをしようという時にうまくいかなくなると、ついやろうとしてしまうのが「願いを一致させよう」ということです。これはあまりうまくいきません。ならならば、人それぞれの「願い」は自分のことではないので操作できないからです。共有するのなら具体的な自分ごと、つまり「目標」でしょう。

目標ははっきりしている(≒数値化できる)ので、それが一致していれば一緒にやれます。願いはバラバラであっても構いません。むしろバラバラの方がいいと思います。願いがバラバラの人が共通した目標に向かって動く時に、それぞれ違う材料やモチベーションを持ち寄ると、パフォーマンスを発揮できるということが起こります。

逆に同じ願いを持っていても、目標がずれているとチームとして動きません。「まちを元気にしたいね」「そうだね」とイベントをやった後でケンカになることがあります。なぜならば、ある人は「10人参加したら成功だ」と思っていても、別の人は「100人が参加すれば成功だ」と考えているかもしれないからです。

 

Q.「まち」とは、何をどのような形にするとよいのでしょうか。

A.「まち」とは「共同の財産を使う人の集まり」です。「まち」をどんな形にすればよいかはあなたの願いによります。みなさんの自由です。逆に教えてください。あなたの思い描くまちは、どんなまちで、どうなってほしいと願われていますか?

 

Q.まちづくりとは、地域の課題の解決というマイナスあるいはゼロからそれをプラスに変えていくということだと受けとめました。しかし、まちづくりにはイベントやお祭りといった「楽しいことをやろう」という要素もありますが、その点についてはどうでしょうか。

もうひとつは「まちの問題」についてです。「目的」「目標」「願い」「狙い」のお話をされましたが、「まちの問題」とはそのまちに住む個々人の問題の集積であって、地域の問題・課題というのは果たして存在するのでしょうか。

A.まずひとつめからお答えしたします。僕らはまちづくりをやる場合は、なるべく楽しげにやっています。そうでないと人が来ないからです。まちづくり活動の背景にはマイナスからのスタート、「まちがこうあってほしいのに、そうなっていない」という現状認識、問題意識から始まっていることがしばしばあります。ただそれを前面に出してしまうと重いので賛同者を得られません。ですから「みなさん、楽しくやりましょう」と楽しそうに見せる努力をしています。

次の質問ですが、「地域」という主語は存在しません。まちというのは「特定の財を共同利用する人の集まり」です。つまり一人ひとりが何かを問題と感じているのであって、「まち」という人格が有るわけではないのです。つまり「まち」という、自分とは異なるよくわからない何かが、ある状況を「課題」だ、とは考えることはできません。ひとりひとりの認識からスタートするということは、例えばAさんが「このまちがこうであるといいなぁ」という願望と現実認識のギャップを持つ、つまり問題を掲げることはあるかも知れません。そんな人が100人いれば 100通りの問題があるということです。その100人が話し合って「これはこのまちの課題だよね」と共通認識を得た瞬間に、それは「まちの課題」と言えるかも知れません。そうでないのであれば、それは「一人ひとりの思い」でしょう。

みなさんが「これはまちの課題だ」という時、「こうであってほしいのに、こうなっていない」いう、みなさん自身の願いとして思ってほしいということです。自分の主語を大きくして「まちがこう思ってるんだ」というと、ある種のずるさというか、他人事に踏み込み過ぎだと思います。みんなで共感を得られるようなまちづくりを設定するのが大事だと思っています。

 

Q.まちで商売をしています。商店街でイルミネーションを灯そうということになったのですが、1軒だけ灯っていないので、そこだけ途切れてしまうということがありました。どうしてそこだけ灯してないのかと商店会に尋ねると「商店会費を払ってないから」とのこと。そこでそのお店の人になぜ商店会費を払わないのかと聞いてみると「おれは商店会のあいつが嫌いやから」という答えでした。まちの景観をよくしようというイベントなのに、自分のことと公共のことがいっしょになってしまっています。よく起こることではないかと思いますが、このようなケースについてご意見をうかがいたいです。

A.まちづくりが停滞する理由の一つに、「人間関係がうまくいかない」というものがしばしばあります。なぜそのような問題が起こるのかというと、「最初から大きくやり過ぎている」からだと思います。つまりまちの範囲を広げすぎた結果、目標を共有できていない人がまちの範囲に入っているということです。じゃあどうしたらよいかというと、まずは目標を共有できる仲間と小さく始めましょうということになります。なのに、いきなり商店街という大きな範囲でやろうとするので、人間関係の軋轢が出てきてしまうのです。

また、まちづくりに尽力している人たちの肩を持ちたくなるので「灯りをつけてないヤツが悪い」となりがちですが、イルミネーションを灯さないという人の言い分もあるでしょう。その人はどういう願いを持っていて、何をめざしているのかというところに地域の人も耳を傾けていかないと、いたずらに敵をつくるだけです。「みんなが幸せになればいいなぁ」というところからスタートしているのに、全く逆の方向に行ってしまっているということにもなりかねません。

処方箋を出すとするなら、商店街としてやらない方がいいのではないでしょうか。たとえば「イルミネーションやりたい実行委員会」というようなことぐらいにしておくと、商店会費を払っていない所にもイルミネーションを灯すことができます。まず、人間関係の軋轢に捕らわれない動けるチームをつくって実行します。その上でお金が不足するのであれば、そこに補助金を申請するということだと思います。

 

Q.まちづくりでの人集めはどのようにすればよいのでしょうか

A.人集めをしようとした瞬間、人は集客イベントを打とうとしたり、ウェブサイトをつくろうとしたりしがちですが、それは難易度が高いのでやめておきましょう。いきなり集めようとするのではなく、まずは自分自身がさまざまなイベントに出向いて行って参加するということが大事です。自らが参加してそこで色んな人と話をしていると、いざ自分が人を呼ぼうという時に来てもらえます。つまり「集客するのが上手な人とは、だれよりも集客されるのが上手な人」なのです。いきなり自分のところに集めようというのは、すごくハードルが高いです。まずは自分から人が集まってるところに出ていって、「わたしはこういうことやりたいと思っているんだ」と言って、知ってもらうところから始めるのがいいのではないでしょうか。ウェブサイトをつくったりするのはその後です。会って話した時に、「実はウェブサイトもあるんだけど」というと見てもらえるものです。集客したいなら、集客されましょう。

 

Q.近年、補助金をなくして、すべて民間のお金でまちづくりを進めていくというような声が上がってきているようです。全く補助金をなくしてしまうというのは極論のように思えますが、どう考えますか。

A.補助金を使わず、自腹だけでまちづくりをやるのが正義というような風潮が出てきているが、それはどうなのだろうか、という問いかけと理解してお答えします。

一般論として、まちづくりというのは「誰でも使える財産をつくる活動」なのでフリーライダーが発生します。そうするとつづきません。そのため、基本的に放っておくとうまくいかないものです。だからこそ、フリーライダーを出さない税金をベースにすることで、長年やってくることが出来たわけです。

まちづくりというのは、長い間、基本的には行政がやるものでした。ところが「行政だけでまちづくりするのは無理です。アイデアも人手も限られてるし、もっとやりたいという人もいるので、その人たちをパートナーにしてやっていきましょう」と、市民参加や市民協働という段階に入りました。そこで初めて、これまで行政の中だけで回っていたお金が、それ以外の人に分配されるようになっていきました。まちの人ならだれでも使える財産を、フリーライダーを出さないお金である税金をベースに供給していくというのは、ごくごく自然な流れだと思っています。ですから「補助金を使わずにやるべし」という動きにわたしは同意しません。むしろみんなのためになるのであれば、きちんと税金ベースでやるのが筋だと思います。

しかし、税金をベースにすると時間がかかります。税金を使うのであれば納税者である市民が納得のいく使い方をしなくていけませんので、議会による議論や市長による決定を経る必要があります。すると、今まさに必要だという場面で使えません。必ずタイムラグも内容のラグも生じます。当然です。ではどうするか。今できる人がお金を持ち寄ってやるというのが自然な流れです。その結果、「これは大事なので税金を投入しよう」という話はありだと思います。

ただいつまでも「税金が出なければできない」というのでは進まないというのも事実です。時間がかかり過ぎます。目の前に困っている人がいるのなら手弁当でもやろうというのは、熱くてわたしは好きです。だからといって、本来は税ですべきことを市民だけでやれというのは乱暴だと思います。

◆参考文献◆
谷亮治『モテるまちづくり−まちづくりに疲れた人へ。』まち飯、2014年
谷亮治『純粋でポップな限界のまちづくり−モテるまちづくり2』まち飯、2017年